「可愛い後輩の手前言ってみたけど……」
外は土砂降り。
普通科校舎の昇降口で香穂子は空を見上げた。
この学校は門の前から校舎までは規格外に遠い。
本当は貸した傘は置き傘でも何でも無く、門から校舎などの極一部車に乗って居ない時の移動の為。
自分よりずっと徒歩で移動する距離が長い志水は、自分が濡れることには頓着しなさそうだが、彼の場合頓着しなさすぎる方が心配だ。
香穂子はもう一度溜め息を吐いた。
天羽・土浦や加地を筆頭に友達が通れば柚木の車まで連れていってもらうのだが、どうもそれは望めそうにない。
音楽科の方なら柚木が掴まれば良いのだが、それなら彼の信者に見られれば射殺さんばかりの視線が手向けられる。
腕時計に目をやり、嘆息した。
これ以上待たせると、親衛隊以上に柚木本人が怖い。
(仕方ない)
覚悟を決めて香穂子は土砂降りの中一歩踏み出した。
自分だけはヴァイオリンを持って来なかったことに、自分を褒めてやろう。
柚木は自宅からの車の前で傘をさして香穂子を待っていた。
余り彼女は待ち合わせというものに遅れない。
少しでも長く居たくて、それを押し殺して「待ち合わせには早めに着いておくものだ」などと言って以来、彼女は過敏になったようだ。
只でさえ寒い季節が雨のせいで更に気温が下がり寒い。
だが寒がりの香穂子は自分が感じているより寒いのだろうと思うと中で待つ気にはなれない。
(おれにここまでさせたのなんか、お前くらいだよ)
「梓馬さま…」
不意に声をかけた運転手に柚木は微苦笑を向けた。
「悪いけれどもう少し…」
「ええ、ですから日野さまを迎えに上られたら、と」
柚木と同じくらい仄かな笑みを湛えた運転手の科白に声を詰まらせた。
「………そう、だね」
幾分学校よりは取り繕わないとは言え、気取られるほど香穂子ばかり言っていたか。
照れ隠しに校舎側へ視線を投じた。
ふと曇天と雨でけぶる景色の中に寸分違わず思い返せる人物が見えた。
それを認めた瞬間、ローファーやズボンの裾に泥が撥ねることも気にせず走っていた。
「あっ柚木先輩!」
「この馬鹿!」
雨で聞き辛いとは言えまだ生徒がいるため声量は抑えているが柚木は堪らず言った。
百万の言葉を飲み込んで柚木は香穂子に傘を傾けた。
「わわっ先輩が濡れますよ!」
「お前五月蠅い。発言権なんてある訳ないだろうが」
香穂子の肩を抱き寄せ出来るだけ傘と自分で香穂子を雨か庇いながら車へ近付く。
香穂子を最初に車に押し込み、車の屋根に傘を引っ掛けるようにして雨を防いだ。
次いで柚木が車に乗ると香穂子は髪から水滴を零しながら縮こまっていた。
「………すみません」
「タオル、貰えるか?」
香穂子の謝罪を黙殺した柚木がそう告げると、運転手は予め用意していたのか間を置かず白いタオルを幾つか差し出した。
それを一枚香穂子の濡れた頭に広げた。
「ゆの、」
「黙って拭かれてろ」
努めて声を低くして言った。
だが不安げに見上げる瞳を見ていると苦笑が洩れる。
「捨てられた子犬を拾った気分だな」
「こいぬ……」
明らかに気分を悪くした香穂子の額に指弾して黙らせる。
まだ香穂子に発言権を復権してやるつもりはない。
あらかた乾いたものの湿り気を帯びた髪から更に滴らないよう、肩にタオルをかけ、新しいタオルを香穂子に渡した。
「…………」
黙々と柚木も湿り気を帯びた自分の髪やら腕やらを拭く。
そして漸く盛大に泥が撥ねた靴やらズボンの裾に気付いた。
(自分のことよりも誰かを優先するとは、な)
困ったように、だけれど何処か嬉しそうに柚木は香穂子を見る。
が、すぐに顔をしかめた。
雨で冷えた空気に晒された上、雨で体温が奪われた香穂子の顔はいつもより血の気が失せて見える。
「全く」
呆れたように呟くとびくりと肩を震わせた香穂子を抱き締めた。
「お前、ひとつ置き傘してただろ?」
「…志水くんが、傘持ってないみたいで。あたしは送って貰えるけど、志水くんは駅まで歩きだし…駅に着いてからも……」
「お人好し」
罪悪感から小さな声で話す香穂子にぴしゃりと告げる。
嫌われたと身を竦ませる香穂子に思わず笑みが洩れる。
本当に呆れた人間を抱き締めてやる男ではないと知っているのに。
このまま苛めると自分の嗜虐心は満たされるが、香穂子を泣かせるのも無くすのも不本意だ。
「でもな」
湿った前髪ごと、額に口接けを贈る。
「おれを待たせるからって、困ってる誰かを見捨てるような女、おれは好きにならないぜ?」
だから、笑って。
太陽が雨雲で隠された今、おれの太陽はお前だけだから。
志冬のほうで香穂子が柚木の元に行かなければ書いてなかったです。
たまには別のとリンクさせるのも楽しいですね!