「言葉無くても気持ちが伝わる」事も、きっと一杯ある。




交わす視線。

捉えた口許。

何と無く感じる直感。

確かなぬくもり。



きっとそれで全部わかれば、言葉無くても愛は語れるし、代え難い安心感も得られる。

だけれど、「言葉無ければ伝わらない」事も、きっとある。



それとも………



全て言葉で無い何かで読み取れなければ、あたしの事を嫌いになりますか?



貴方の彼女にはなれませんか?


隣には、立てませんか?





―――――――ねぇ、柚木先輩









A qualification to walk the neighbor A qualification to work the future











星奏学院正門前。

時計の針がきっかり六時を指したのはもう十五分前の話。

徐々に生徒の数が疎らになりつつあるそこにぱたぱたと走る動きにあわせて赤みの強い髪が舞っていた。

「っ……お待たせしました柚木先輩っ!」

「遅い」

「う……すみませんっ」

顔を紅潮させて息を上げて言う香穂子に零れそうになった笑みを十八年培ったポーカーフェイスで掻き消した。

「わざわざ苛められるようにしなくても言えばお望み通りにしてあげるよ?」

「めっそーもゴザイマセンっ」

ぱたぱたと手と首を振って青くなる香穂子を見て今度こそ笑った。

「どうぞ、お姫さま」

車のドアを開けて香穂子を促す。

香穂子はまだ整いきらない呼吸を抑えながら車に近づいた。

ふ、と柚木の視線が遠くに向けられたかと思うと、彼は一点の曇りも無い笑顔を作った。

「もう帰るだけだよね?」

近くに音楽科の女生徒の姿が見えて、柚木はがらりと口調と表情を変えた。

一瞬、虚を突かれたような顔をした香穂子も察して、曖昧に笑った。

柚木たちとその女生徒達とは挨拶を交わすような距離でも無かった為に、そのまま常と同じように香穂子は車に乗り込みかけた。

「ねぇあそこ…。また日野さんが。…付き合ってるのかしら、図々しい」

香穂子は、柚木に気付かれないよう、小さく視線を落とした。

コンクールが終わって、曖昧ながらも付き合うような言葉を交わした柚木と香穂子の空気に、取り巻きとしては面白くないものを感じ取り始めていた。

当然その矛先は香穂子へ。

遠まわしな嫌がらせから、大々的な『お呼び出し』から、多岐に亘って受けた。

今回のそれも、その類のものと同じものと思った。



きっと、「柚木様に声はけれないけれども、覚えて貰えないだろうからこそ出来る嫌がらせをする度胸はある」娘たち。

香穂子に聞こえているのを十二分に承知で、言った女の子の隣を歩く子がくすり、と笑って言った。

「まさか!だって、柚木先輩は、」

ふ、と柚木に嫌な予感が駆けて、入りかけたまま硬直した香穂子を車の中へ押し込めた。

「わっ、柚木先輩っ?」

バンッとドアを勢い良く閉めた音に掻き消されながら、彼女は柚木が予感した通りの科白を言った。





「柚木先輩は、明日お家が決めた方とお見合いでしょう」






きゃらきゃらと嘲笑を込めて笑って通り過ぎる女性とをやり過ごして、常ならば香穂子を入れたほうから入るのを、閉めてしまった所為で逆へと回る。

ドアを開ける前に、唇だけで呟く。



―――――――馬鹿馬鹿しい。



見ず知らずの、それも十代の学生が、家の決定で結婚だ、なんて話はもう半世紀以上前の世情(よのなか)。

皮肉げに口許を歪めて、困ったように鎮座して膝に置いた手元を見る香穂子に視線を遣った。

車に押し込めた、手荒い行動は、そのことを香穂子の耳に入れさせない為の行動。

ゆっくりと、力を込めて、ドアを開けた。

「どうかしましたか?」

「いや」

言いながら乗り込んで、香穂子の隣へと座る。

只、距離はいつもより、無い。

「あ、のっ柚木先輩?」

「何。文句あるの?」

言わせないけど、と付け足して、シートに背中を預けた。

そのまま、柚木の頭はずるずると香穂子の頭へ預けられる。

逃げないよう、腰を抱いて。

だが柚木は、香穂子が絶対に逃げない事を知っている。

「疲れてるんですか?」

「……ああ」

然して疲れてはいなかったが、言われた途端、どっと疲れが出てきた。

やっぱり、疲れているのかも知れない。

もぞもぞと動いて香穂子の膝に頭を移動させた。

最初、目を丸くしたと思えば、顔を真っ赤にしながら何か言いたげに口をぱくぱくさせた。

まるで鯉だな、と思いながら、くつりと笑った。

と、優しげな笑みを向けて、太腿の上の柚木を見た。

柚木には、何故か酷く悲しげに見えたけれど。

「黙って帰ったりしませんから、寝てください」

柚木よりも一回り以上小さな手でゆっくりと柚木の目を伏せさせた。

「初めてですね、柚木先輩がこうやって甘えるの」

何だか酷くプライドを逆撫でされた気になったが、今回だけは黙殺した。

眠気が、手招きする。

眠りに落ちる瞬間見えたのは、香穂子の指先。

だから、柚木には香穂子の表情は見えなかった。





やがて寝息を立てた柚木を見て、香穂子は今にも泣きそうな顔をした。

「………っ」

それは、ポーカーフェイスが出来ない香穂子が力を抜いた証。

「ねぇ、柚木先輩………」

大きくないエンジン音が、自棄に耳についた。

















週末の休みの間に執り行われた柚木の会談を名目としたお見合いは、滞りなく行われた。

それは偏に、たとえ腸(はらわた)が煮えくり返るほど怒っていても、不快感を与えない程度に笑える柚木の処世術と、先方が柚木を気に入ったお陰。

柚木には、馬鹿馬鹿しい以外の何物でもない会談。

止め処ないことを想う。

何故、目の前の彼女が香穂子では無いんだろう。

自分の言動一つでくるくると回る表情が恋しかった。

周囲の機嫌を窺うだけの、婚約を約定する会食は、酷く退屈で、持て成された料理の味すら覚えていなかった。



たった二日で、香穂子がただ恋しくなって、週明けの月曜日、少し早く着いた日野家の玄関先には、焦がれた彼女ではなく、彼女の母親が出た。


「ごめんなさいね、香穂子、早くに家を出たのよ」



ただ黙って目を丸くした柚木に気付いて、香穂子の母親はもう一度謝った。

「ごめんなさいね?私も本当に驚いたのよ。毎朝いつもあなたが来るのを楽しみにしていたから」























土浦は、最初とても驚いた。

良く見知った赤毛を揺らして、運動部が朝練に間に合いそうにないないなあ、遅刻しそうだなぁとぼやくような時間。

文化部や帰宅部には早すぎる時間。

最初、香穂子がこの時間に歩いている事に驚いたが、香穂子が歩いて登校してる事にも驚いた。

「…………日野、か?」

だから、思わず疑問形になってしまっても仕方無い。

ぴくり、と肩を揺らして立ち止まって、ゆっくり振り返った。

「土浦くん……」

「土浦くん、じゃねぇよ」

香穂子の隣りまで少し大きく歩幅を取って隣りに立った。

そして、香穂子に無理の無い速さで歩く。

「…珍しいな、お前が歩きって」

さっきよりも大きく香穂子の肩が震えたのを、横目で見た。

「柚木先輩は良いのか?」

早い登校の原因だと思われる人物の名前を出すと、徐々に香穂子の頭が下を向いて歩くのが遅くなった。

(ビンゴかよ)

そんなに辛そうな顔するなら、素直に待てば良かったのに、と香穂子が自分の歩く早さが遅くなった事に気付かないよう、合わせて歩幅を変えた。

「…うん、毎日悪いかなぁって」

「それ、言ったのか?」

「………………」

はあ、と大きく溜息を吐いた。

「あの噂か?」

問いかけ、ではなく殆ど断定的に言った。

「噂じゃ、無いよ」

三日前、天羽が聞きづらそうに香穂子の前の椅子に座って、必死に言葉を選んで言ってきた。

「あんた、柚木先輩の彼女、だよね?」

コンクールを通じてし合った彼女とは、最早近しい友達であり、友達として柚木との事を打ち明けた。

スクープを追いかけてる彼女とて分別くらいは弁えている。

だから、報道部の力によって公認になる事は無い。

それどころか、柚木は付き合っている事を隠すように持って行っている。

「あの、さ、柚木先輩って婚約者、いるの?」

「え………?」

そんな話、知らない。

そう言い掛けた科白は喉で潰れた。

代わりに、震える声で別の科白が出た。

「ただの噂じゃ無いの?」

言ったものの、すぐに後悔した。

彼女は、信憑性の無い話は持って来ない。

悪戯に掻き回す娘ではない。

「………ごめん」

「や、良いよ。本人に聞いた訳じゃないし…てゆーか流石に聞けないし」

気にしないで、と笑った天羽の笑顔にすら、陰りがあった。

そして、漠然と疑問に思った。



あたしは、柚木先輩にとって何だろう…?







「噂じゃ、無い」

もう一度、繰り返した。

はっきりと言った表情は、抜けるような青空には、酷く似つかわしくなかった。



















「、の、…きっ……柚木っってば!」

昼休み、いつも火原が驚くほどしっかりしている柚木が一点を見つめて微動だにしていなかった。

動きらしい動きは、溜息を吐くときの動きと、時折伏し目がちに揺らぐ視線。

普段が物静かなだけに、良く見なければわからない。

前に回りこんで話せばきちんと応対するから、クラスの女の子が気付いて声をかけても気のせいだ、と思ってしまう。

後ろから呼んでいる為、柚木は耽ったまま気付かない。

火原は大股に柚木に近づくと肩を叩いた。

「ゆーのーきーっ?」

「……何だい?火原」

「…どうかしたのか?」

今日半日を指して、緑の髪を揺らしながら聞き返した。

「何でもないよ。少し疲れてるのかな」

「無理するなよ?…と、それから、お客さん」

ぴっと指差した先には居心地悪そうにする、

「土浦、くん?」

「そー。何か話があるって」

有難う、と火原に告げて、優雅な動作で土浦の元へと歩いた。

「珍しいね、君がここまで来るなんて」

はあ、と言って、少し周りを気にした。

白が基調の制服が溢れる中で、土浦の普通科の制服は自棄に浮いた。

「屋上でも行こうか」

柚木に促されるがまま辿り着いた屋上は、今日も地上よりも風が強く感じた。

柚木の長い髪が、不意に強く靡いた。

「話って何かな?」

優雅に、笑って言った。

その笑顔を見て、今朝の香穂子の表情を思い出してからさまに眉を寄せた。

「日野が」

土浦は意識して声を低くした。

眉を寄せたまま、柚木の向こうの景色を見るように睨んで言い直した。

「日野と、今朝登校しました」

「………君と?」

「ま、途中で会っただけですけど」

「……………」

「噂と、何か関係あるんじゃないかと思って」

「噂?」

がりがりと頭を掻いて集点を柚木に合わせた。

「…柚木先輩に、婚約者がいておととい逢ったって噂。普通科まで広がってるんですよ」

「―――――――香、穂子も?」

ふ、と土浦は目を見張った。否、驚いた。

コンクール後も、土浦や他の参加者…と言うよりも他の誰かがいるときは「日野さん」と呼んでいた。

だけれど、きっと思わずついて出たその名前は、自棄に口馴れて聞こえた。

てっきり二人の時も「日野さん」と呼んでいると思っていた土浦は驚きながらも正直に返答した。

「ちゃんと聞いてませんけど、多分」

「…………そう」

柚木も、全く考えていなかった訳ではない。

寧ろ報道部の友人を持つ彼女には、耳に入っている事は予測していた。

それでなくとも香穂子の交友関係は狭いとは言えない。

「日野、連れて来ますか?」

聞きたいことや、話したいことは、勿論あった。

それ以前に、逢いたかった。

だが。

「いや―――――――良いよ」

その答えに、土浦は耳を疑って、さっきよりも眉間に皺を寄せた。

「「日野さんが避けてるって事は、今話したくないだろうから」

屋上の柵に手をかけて土浦に背を向けた柚木の後姿から視線を逸らすように地面へと向けた。

「なら、おれからは何も言いませんけど」

「ごめんね、気を遣わせて」

「でも先輩」

硬くなった土浦の声音に、柚木は振り返った。

「日野には言わないと、このまま日野を失くしますよ」

「……昼休み、終わるよ」

同時に、予鈴が鳴った。

「失礼します」

風と、強い太陽の光を受ける、柚木の笑顔も、やはりこの空に似つかわしくない、と思った。



その日、香穂子と柚木が顔を合わせることはなかった。

下校時間を三十分過ぎるまで待ったが、赤みの強い髪が揺れるのを見る事無く、金澤に追い出されるように学校を後にする。



そしてそれが、一週間続いた。